2014年3月30日礼拝週報
説教:「清く美しい心情を捜し求めて 」 説教者:南﨑雅明教会長
訓読したみ言:「天一国経典 天聖経」
『天聖経』 P450~452
第四篇 真の人間
第三章 真の人間に復帰する道
神様が喜ばれ、悲しまれることを常に判別しながら生きる人は、悪なる人になろうとしてもなることができず、天の法度に背こうとしても背くことができません。公的であれ私的であれ、神様が最も嫌われる人は、対人関係において他の人を利用しようとする人です。その次は、何でも自分の利益を中心として判断しようとする人です。
神様が好まれる人は、譲歩する人です。譲歩とは、自分がひらすらその人についていくことです。その人がしようと言うとおりに、ひたすらついていくのです。ひたすらついていけば回るようになり、回ってみれば、あとから自分がその位置を占領するようになります。結局は、その人のすべてものを占領できるというのです。
常に柔和、謙遜で、その人がしようと言うとおりに従順、服従、屈服しなければなりません。それは、その人を完全に占領するためです。人だけを占領するのではなく、その人の全体を占領するための作戦です。したがって信仰世界においては、自分を否定し、代わりに相手の要求に完全に順応していく作戦を取らなければなりません。それは自分自体がなくなるのではなく、相手を完全に占領するための一つの作戦なのです。このようなことを生活において感知しなければなりません。
驕慢は怨讐です。驕慢と固執はサタンの本質であり、サタンの要素です。ですから、私たちは驕慢になる代わりに謙遜になり、固執する代わりに和合しなければなりません。「和而有親」です。この人にもよくしてあげ、あの人にもよくしてあげる人にならなければなりません。そのようになれば、ここから全てのことが通じるようになるのです。この人とあの人、二人が一つにならなければ、より大きいものが出てこないのです。和合しなければそのようになります。サタンの本質には、妬みと嫉妬のようなものもありますが、驕慢と固執は、私たちには許されないものです。
統一教会は聖人をつくろうというのです。偉人の前には怨讐がいますが、聖人の前には怨讐がいません。偉人は自分の民族だけを愛した人ですが、聖人は人類を愛した人です。ですから、偉人が神様のみ前に出ていくとき、「お前は自分の民族は愛したが、私が愛する、私が求める世界人類を愛することができなかったではないか」と言われれば、神様のみ前に出ていくことができませんが、聖人の道理に従っていった人は、神様のみ前に直行できるのです。統一教会は聖人をつくろうというのです。
神様をあがめる人は血を流さなければならず、神様を愛そうとする人は涙を流さなければなりません。目から涙が乾いてはいけません。そして、神様を探し求めていこうという人は汗を流さなければなりません。それで、父母の心情で僕の体を用い、人類のため、アベルの立場で犠牲になって奉仕し、精誠を尽くして与えなさいというのです。そのように与えながら誇るのではなく、もっと良いものを与えたいという思いをもち、恥ずかしさを感じながら与えなさいというのです。それが神主義です。
先生が今まで夜を徹しながら人に対しているのは、すべての人を好きになるためです。人を嫌っては復帰歴史に責任をもつことはできません。悪人も好きにならなければならないし、善人も好きにならなければなりません。すべての人を好きにならなければ神様を身代わりできないからです。
堕落とは、神様の世界から反対の立場に落ちたことです。この世界を、悪の立場に落としたのが堕落です。神様も、「この世界は悪い」と言うようになれば、神様ではありません。神様が復帰摂理をすることができないというのです。神様がこの世界を「良い」と言いながら造ったのに、「堕落したから、この世界は悪い」と言う立場に降りてくれば、神様ではないというのです。ですから、悪いことも良いことのように対するのが原則です。ですから、イエス様も「怨讐を愛しなさい」と言われたのです。
「怨讐を愛しなさい」というのは、「怨讐がいない立場に立ちなさい」ということです。怨讐がいない立場に立ちなさいということは、エデンの園で堕落圏を迎えていない本然の世界、本然の位置に帰った状態になりなさいということです。私たちは、これを中心として闘うのです。すべてがそのようになるために闘うのです。ですから、皆さんが最初に人に対するときは、悪い人だとしても、悪く見てはいけないというのです。
◆お知らせ
4/ 2(水)精誠祈祷会
4/ 6(日)教区祝福式
4/ 7(月)第454回 安侍日
4/13(日)讃美礼拝